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圓佛教

圓佛教について

圓佛教について

「概観」

  圓佛教は、1916年(円紀元年)3月26日(旧暦)に少太山朴重彬大宗師が、一円相の真理を大覚されたことに由因して、創立された宗教である。大宗師は、全羅南道霊光郡白岫面吉龍里で、26歳の時に宇宙の真理を悟り、「真理的宗教」の信仰と「事実的道徳の訓練」を提唱した。しか彼は、「波瀾苦海の一切生霊を広大無量な楽園に」導くために、圓佛教を開教したと、「正典」に開教の動機を解明している。

  圓佛教の教名に対して鼎山宗師は、「圓を形而上学的に説明すれば、言語と名相が断絶された境地であって、何をもってもこれを形容することはできない。しかし、形而下学的には宇宙万有は、この「圓」をもって表現されるので、これは即ち万法の実存である。ゆえにこの世に存在するあらゆる教法は、たとえ色々と表現を異にするだろうが、その実際においては、「圓」以外にはまた一つの法も存在しない」と。また、「仏は即ち悟るということであり、また心という意味であって、圓の真理がいかに円満で、万法をあげて、包容するといえども悟る心がなければこれは、ただ空虚な理論にすぎない。ゆえに、「圓佛」の二字は、元来二つでない一つの真理であって、相離れられない関係である」(「鼎山宗師法語」経綸編第1章)と言った。それでは圓佛教と仏教との関係はいかであろうか。

  大宗師は大覚の後、「釈迦牟尼仏は、本当に聖人中の聖人である」、「わが淵源をみ仏に定める…仏法を主体として、完全無欠な大会上をこの世に建設しよう」と説く(「大宗経」序品第二章)。これにかんがみるに圓佛教は、仏教に淵源しているのことがわかる。しかし、外面上目立つことは、象徴とする信仰の対象を異にし、教団の形成過程、運営方式、制度などが、既成仏教とは異った組織を持つ教団であることがわかる。根本たる真理面においては、相通じているといえども、教理の部分的解釈においては、従来の制度をそのまま踏襲しようとしないのである。

  圓佛教は、単なる仏教の改革にとどまらず、これを超越して現代宗教の新しい方向を提示したとみるべきであろう。少太山大宗師の提唱された革新の内容に時代化、生活化、大衆化に標準をおいている。時代化というのはいかなる時代に処しても、その時代相に相応してよく同和するようにしながら、より高い次元に人々を指導しうる法だということであり、生活化というのは生活の中から、直接仏法を会得して、仏法によって、生活することをいう。仏法は、即ち生活の智慧を明した教えだという意味である。集団的、全体主義で追い立てるのではなく、だれにも一様に生きがいを見いだしうるように教えるという意味である。

「少太山大宗師の求道」

  少太山は法号であり、彼の本名は朴重彬である。大宗師とは、教祖に捧げた尊称である。大宗師は、1891年全羅南道霊光郡白岫面吉龍里永村で平凡な農民、朴晦傾氏の三男として生まれた。彼は幼いころから特異な点が多く、7歳の時にすでに宇宙の自然現象に疑問をいだき、9歳の時には人間万事にまで、大きな疑問をおこしたという。これらの疑いを解決しようとして、或いは、山神に会えるよう祈祷をささげたり、或いは道士を訪ねまわったりしたこともあった。しかし、目的を達せず、結局自ら悟るほかに道はないとあきらめ、祈祷と苦行を継続しながら14、5年の歳月を費やした。

  15歳の時、梁氏(夏雲)を娶り世帯を持って、2男1女の父となったが、これという「生」の価値を見いだせなかった。父母の庇護の下でようやく生計をたてながら、求道に専念するうちに、20歳の時父を失うや、彼は最も深刻な心の衝動を受けた。ついに彼は、「まさに、私の切なる願いをどうしよう」というその一念に深くとどまってしまった。彼の求道的渇望は、万事をうち忘れたまま昏沈状態に陥ることもあった。

  それから5年の歳月が流れ、周りの人たちは、彼を全くの廃人扱いにした。彼が26歳の1916年3月26日(旧暦)の明け方、ふと、一念が明るくさえわたるとともに、全身が爽快になり、あらゆる疑問が次々と解けはじめた。これがまさに彼の大覚を成就した境地であった。

  大宗師は、大覚の心境を、「万有は同じ一つの体性であり、万法は同じ一つの根源である。この中に生滅のない道と因果応報の道理とが、互いに基となって一つの円らかな相をつくっている」(「大宗経」序品第一章)と言われた。今までの彼の長い間の疑問が解かれ、智慧の眼をもって現世を観照した光景であった。彼が生まれた1900年を前後した国内外の情勢は、日に日に急変してゆく時期であった。また西洋人の到来を通じて天主教が導入され、国内の宗教状況はおびただしい変化をもたらし、伝統宗教との間には深刻な衝突をおこした。

  1910年には、韓日併合事件がおきた。当時大宗師は、大覚を得た境地から宇宙自然の真理を明らかにされたのであるが、今後、将来する世界情勢に対応するのは、何より人間の精神革命が急事であることを悟って、新しい道徳の確立を探索するに到った。彼は、「物質は開闢される。精神を開闢しよう」という開教標語を掲げて、彼の出生地全羅南道霊光において精神開闢の旗じるしをあげたのである。

「創教」

  大宗師は、圓佛教を創立して教団を形成した過程を考察すれば、生まれた郷里において道をなしとげ、また彼の創教理念を実現した場所も同じく郷里であった。1917年(円紀2年)には、郷里の同志を集めて貯蓄組合を組織し勤倹節約と禁酒禁煙を奨励して経済的基盤をたて、翌年3月には九人の弟子とともに自力で、10万余坪の干潟地防堰工事に着工、あらゆる苦難を克服して、1年で一端竣工した。これら近隣住民の生業の下地を築いたことにもなり、一面、霊肉双全の開拓精神をよびおこしたことにもなるので、近代韓国開拓史の嚆矢だとも言えるであろう。

  三・一運動が起った1919年(円紀4年)、当時大宗師は、民衆に公益の価値と奉公の精神を振作するため標準弟子九人に特別祈祷をささげるようにした。世界一家を目指して、正気を涵養しようとする精神的働きであり、大同団結力を示すことでもあった。大宗師を団長に十人一団は、祈祷3ヶ月目にして奇しくも血印誓天の大聖事が生じたという。

  三・一運動は外に向かう抵抗であったとすれば、開拓事業に続く祈祷行事は、対象的になる重要な内的準備の一つでもあった。1924年(円紀9年)、本部を今の全羅北道益山市新龍洞(現圓佛教中央本部)に移し、「佛法研究會」という臨時名称を掲げて辺りの荒蕪地を開墾して、現在の6万余坪にわたる圓佛教中央本部になるべき基礎を作ったのである。大宗師は、当時集まってきた弟子たちを率いて、制定された定期訓練法と常時訓練法によって人材を養成した。

  昼間には農業部の一員となって開墾と建設に努力し、夜間には宗教と道徳に基づいて精神訓練を受けさせた。これが即ち、彼が実現しようとする真理的宗教の信仰と事実的道徳の訓練であり、霊肉双全・理事並行の実践であった。このような開拓精神と訓練方式は、勤勉で着実な指導者像の養成を目標としたのであった。1926年には、一般の生活上の様式を改革するために新定儀礼準則を発表し、従来の儀式に対し革新の必要を広く宣揚した。

  1935年(円紀10年)産業機関として、薬社(普和堂)を開設して、教役者をして直接これを経営させた。これは、将来の宗教は生産性のある自立経済の基盤を立てなければならないことを予示されたのであった。1940年(円紀25年)には、全羅北道完州郡参礼邑岫渓里に農場を新設して産業宗教の面目を新たにしたのであったが、今は農作、薬草園、果樹園、畜産、養蚕業などの大なる総合農場となっている。

  彼は、教団の事業目標を教化、教育、慈善に定め、衆生を導く大道の理念を生かして、創教当時の理念を固めたのである。

「教理」

  大宗師は、彼の悟った真理を「○」をもって象徴し、不生不滅の真理と因果応報の真理は、互いに基になっていると言われた。圓佛教の教理は、この一円相の真理を最高宗旨とし、人生の要道として、四恩四要と、勉強の要道として三学八条を解明している。一円相の真理はあらゆる存在を互いに可能にさせる大なる力の法則で形成されている。なくては生きられないこの力の関係を「恩」であるといわれた。人間はこの大恩を自覚してつねに感謝し報恩するならば、真理の威力を得るようになり、自身はいつも相生相和の気を得るようになると言われた。この恩恵を「天地恩、父母恩、同胞恩、法律恩」の四つに分け、この四恩に報いる道を解明したのが信仰門である。

  これに対して、大宗師はまた修行門を解明した。人間の本性は、一円相のこどく円(まろやか)がであって過誤がなく、かき乱されることもなく、愚かでもないというのである。しかし、その本来の心が、様々な境界に引きずられて、欲心をおこすようになったので、ここで人間は、本性を失うようになったとみるのである。ゆえに精神を修行し、事理を研究し、作業を取捨することによって間断なく修行に精進すれば、一円相のごとく、円満で偽りのない真なる本来の心にもどり、その心をよく活用すれば、無窮な恩恵と威力を得るようになるというのである。この道を解明されたのが修行門である。また自力養成、智者本位、他子女教育、公道者崇拝の社会改革上の四つの実践要目を四要と言い、四恩と四要を合わせて、人生としてふみ行うべき要道として定めている。

  修行門においてはさらに信、忿、疑、誠の四つの条目を進行四ヵ条と言い、不信、貪欲、懶、愚の四つの条目を捨捐四ヵ条と称して、三学と八条を合わせて人生として必ず修練すべき勉強の要道と定めている。以上の内容は、円満具足であり、至公無私な法身仏一円相を信仰の対象にしようということである。

  宇宙万有は、天地、父母、同胞、法律の四恩でつながっているので、人間は一時、寸時もこの恩恵から離れられないことを悟って(処処仏像、事事仏供)、常に感謝して生きるようにし、また敬いおそれる心をもって、世間万事を処理していこうとするのである。しかし、他人に依頼する心を捨てて自力を養うようにし、あらゆる不自然な階級を打破して、ただ智慧のある者を先導者として、だれでも皆智者になりうるように努め、力の及ぶ限り自他を越えて、他人の子女をも教育するようにし、何よりも公益心をもって働き、公道者を崇拝しようというのである。

  また一方においては、円満具足であり、至公無私な法身仏一円相を修行の標本として、いつ、どこでも、禅を修めるように心がけて(無時禅、無処禅)、修養・研究・取捨の三大力を養成し、信、忿、疑、誠をもって精進し、不信、貪欲、懶、愚を除去しようというのである。結局、このような信仰と修行を通じて、ついに円満具足であり至公無私な法身仏一円相と契合して、自ら成仏し、進んでは衆生を済度し済生医生の誓願を達成しようとするのである。

「活動」

  大宗師は、彼の制定した教理に立脚して、弟子たちを訓練させた。彼は、精神と物質を併進する円満な道徳文明を建設しようとした。しかし、大宗師の生涯は、時局が大変不安な時代であった。大宗師は、救世の精神で世界の大勢を考察しながら、万難の中に発刊された「仏教正典」(今の「正典」と「仏祖要経」の合本)によって、弟子たちを訓練し、人間の精神革命に尽力されるうち、解放2年を前にした1943年6月1日(円紀28年)に、53歳で世を去られた。  

  直後、佛法研究會では鼎山宋奎法師を宗法師として推戴した。ちょうど日本統治時代末期の戦時下であったので、朝鮮人団体に対する苛酷な弾圧を受けながら、鼎山宗法師は解放を迎えた。

  1945年(円紀28年)の解放とともに鼎山宗法師は、前身の佛法研究會の名称を変え、圓佛教という教名を宣布した。鼎山宗法師は、戦災同胞救護事業、教育事業、建国事業(ハングル普及)を大目標と定め、この実践に努力した。ここにおいて圓佛教では、ソウル、益山、全州、釜山地方に救護所を設置して、海外から帰国する同胞の案内、給食、防疫および治療に尽力した。一方では、親戚、家族を失って身寄りのない同胞たちを保護した。また今のソウル徳成女子高校の場所に、学兵帰国者を集めて建国のための思想講演会を催した

  鼎山宗法師の領導するこの宗団は、教育立国を前提として「唯一学林」(圓光大学校の前身)を設立して、植民地教育から脱皮するよう英才たちに自主性ある教育を施した。とくに失った国語教育が急務であることを感じて、各地方の文盲退治運動の先頭に立った。我々に恵まれた解放とはいえ、人的物的に極度に貧困であり、すべてが混乱きわまる時局であった。

  この時期に当たって、鼎山宗法師は、宗教指導者としての立場から「建国論」を執筆した。「建国論」の中で政局指導の大意を述べ、これを実践するようにさせ、各方面に教化を施した。しかし、彼は、少太山大宗師の大世界主義に則り、まずこれを韓国から実践しようとする抱負であったために、おいおい政局が安定し政府が樹立するにつれ、圓佛教教団の方向目標を教化、教育、慈善の三方面にわたって再整備した。

  それでは鼎山宗法師の統率以後の圓佛教は、社会面、文化面にいかなる事業をなしたか。その重要な事業だけをあげてみれば、まず教育事業においては、1951年(円紀36年)六・二五動乱直後に、従前の唯一学林専門部を圓光大学校に改編し、唯一学林中等部を男女別に、圓中・高等学校、圓女子中・高等学校に分離設立して認可を得た。1953年(円紀38年)東山禅院を開設して、教団の将来を担うべき人材の訓練を行った。

  社会事業機関としては、1945年ソウルに孤児院を設立し、1950年にはまた本部構内に療養院と東華病院を、1953年に益山に孤児院を設立した。文化活動としては、1951年に出版と印刷施設をかねた圓光社を発足させ、文化事業の一翼を担当した、圓佛教の機関誌である「圓光」がここで発刊され、その他、教材および教養書籍を刊行することによって、圓佛教文化活動の揺籃となった。1955年には、裡里市内に缶詰工場(三昌公社)を設立して、地方都市の労働者たちに職場を提供した。同年圓佛教の発祥地である霊光に二次防堰工事を着工し、農耕地を拡張した。1958年(円紀43年)教書編修機関として正化社を設置した。

  とくに鼎山宗法師は、一生を通じて、この教団の基盤をかためた事業の中で、最も偉大であると評価されるべきものは、少太山大宗師の思想と、抱負と、経綸を集大成した教書の編述であった。これは、韓国の現代精神史においても実に高く評価されるべき文化事業であろう。編述された重要教書としては、改訂版「正典」、「大宗経」、「仏祖要経」、「礼典」、「聖歌」などである。鼎山宗法師は、1962年(円紀47年)1月22日偈頌として、「同原道理、同気連契、同拓事業」の三同倫理の伝授を最後に、享年63歳で世を去った。

  同年2月鼎山宗法師の宗統を大山金大挙法師が継承して、宗法師に就任した。大山宗法師は、教祖の根本的精神と鼎山宗法師の経綸を継承して、1963年(円紀48年)に、開教半百年記念事業会を発足させた。この事業が成就されるや大山宗法師は、今後の教団は内外的に充実した実力をそなえ、全世界に向けて実践拡張することを強調しながら、先師方々の志を受け継ぎ、「真理は一つ、世界も一つ、人類は一つの家族、世界は一つの職場、開拓しよう一円世界」と、世界の一円化の思想を宣揚して、国内の多数教徒を集合して団合大会を催した。大山宗法師は、教団の方向を内的には実力ある教団(精神の自主力、肉体の自活力、経済の自立力)に、外的には奉公する教団である、「出家奉公会、在家奉公会、国家奉公会、世界奉公会」となるよう力説している。

「特徴」

  圓佛教は、歴史的状況の下に一つの宗教として、若干の特徴を見いだすことができる。宗教的な面からみれば、第一に、韓国から生まれた宗教だという点である。仏教の「仏」を主体思想として、韓国で生まれた革新された宗教である。しかし、韓国で生まれた宗教だとはいえその内容が単に国家的宗教、民族的宗教として、局限されてはならない。いかなる宗教でも、宗教が皆世界を指向してはいるが、その宗教とはまず、自分が生まれて生きて行く地域に発展的変化をもたらさない限り、その宗教は大衆化、生活化されることはできないのである。この点において圓佛教は韓国で生まれたのであるが、静かなうちに変化を試図しながら、人間の意識構造と人間の生活様式を転換させる、一つの革新的態度で進んできた点である。

  第二は、自他力並進の教理を提唱した点である。大宗師は、宇宙自然の道理を悟り、その悟りの内容を文字や言語を用いず一円相を図形で表現したのである。そして、円の象徴した真理の真諦を、自他力並進の信仰体系に形成したのである。自力信仰か他力信仰かの一方にかたよらず、これを調和させた点である。

  第三は、仏法をもって教理体系を立て、仏法の時代化、生活化、大衆化を図ったとう点である。大宗師はほぼ20年の求道の結果、ついに大覚を成就された。しかし、その成道の課程や出発点において、いかなる宗教の影響も受けなかった。ただ自身の悟りは、仏陀の悟りに一致することをさとって、「仏法」を主軸として教化を施した。我々は、まずその妙なる法に基づいて己の精神は即ち、仏であり、法になりうるという深い境地にまで進み入って、相互に交流し合い相克されることなく、和合する生活をするようにしたのである。

  第四は、宗教倫理を提示した点である。地域と空間を挟めた現代の状況において、宗教を信仰している人々は、横的に互に兄弟愛の精神と相好一致感をもつべきである。他の宗教を低く見なし自分の宗教だけが絶対的であるというような宗教倫理は、これからは止揚されねばならない。宗教家と宗教指導者たちはまず、宗教を信じない人々を誘導して縦的に自家宗教の教理を宣伝する前に他宗教とまたは他宗教の指導者たちと和解の倫理を提示しなければならない。このような点から圓佛教においては、三道倫理という思想を提示した。

  第一に、同原道理で、即ち、宇宙万有の根本になる道理は、一つであるということである。第二に、同気連契で、気は一つに通じる。即ち、生命をもつ存在は、すべて生き生きとした一つの気をもって相通じるということである。第三に、同拓事業で、異なった各地域でどのような異なった仕事をするにせよ、目的は同一であるという信念で進むべきであるという倫理である。これらの三同倫理は、宗教は互いに和同しうるという可能性も適切に提示したといえる。

  また思想的な面でも若干の特徴を見いだすことができる。第一は、当時、少太山大宗法師が存在哲学を提示した点である。この真理的存在を一円相をもって標榜したために一円哲学だともいえる。ここにおいて、西洋人のような分析的態度からみる存在とはその概念を異にする。大覚の境地からみたこの宇宙には、生き生きと躍動する気が充満していることを発見した。そして、哲学的根拠を立てて新しい宗教としての方向を示した。それは一種の象徴的哲学であるともいえよう。

  第二は、報恩思想を提起した点である。恩を知り恩に報わなければならないという当為的人間関係の倫理だけを言うのではない。この宇宙には、無限の生命力があり、ここには基本的な原則がある。これが因果の法則である。大宗師は、人間の自覚を通して「恩」の方向として、因果法を受け入れた。そして、具体的な生命哲学を提起したのである。まずこの宇宙には、永久に死滅したものは一つのないという事実を自ら体験して、生命が因果のことわりによって存在するという事実を知るべきだというのである。

  第三は、科学思想と道徳思想の一致である。大宗師は、「物質は開闢される。精神を開闢しよう」という開教標語で、科学と道徳を一致させる理念を指導者たちに教えた。物質は科学文明を意味し、精神は道徳文明を意味する。道徳を軸として、科学を活用するように道徳と科学を並進させる社会になることを強調しているのである。

  第四は、新たな歴史観を提示したのである。大宗師は、「強者、弱者、進化上の要法」を提示した。強者と弱者が常に敵対意識を持つとすれば、人間の歴史は進展しないということを説明している。強者は、強を永遠に維持しようとすれば、弱者が強者になれるように常に助けてやり、弱者は、強者を先導者として学び、団結力を養い互いに団結して、指導力を形成するようにせよというのである。このようにする時こそ、その社会の強者は、永遠の強者になり、弱者もおいおい強に進み均衡がとれるようになるというのである。このような面で、大宗師は平和的な歴史観を提示したと見なされる。

  また一方では、社会的に寄与する面からみれば、第一に、大宗師は、開拓精神を奮い起こした。貯蓄組合をはじめとして、教団創業の過程をたどってみれば、個人、団体、社会を論せず自力更生の開拓精神を強調する経綸を見いだすことができる。各自は、一円相の真理の下にその理念と恩恵を実施する媒介の役割を果たしうるようにと、強調している。

  第二には、人間化の訓練である。訓練された人間が多くなればなるほど社会は進展する。大宗師は聡明であり、正義心に燃え、斬新な精神をもった人間になるように訓練させるため、経済面を伸ばしながら、教団の発展を図った。人材養成のために、昼は働き、夜は修行につとめさせた。訓練された人の中から専務出身と名付けた教役者を輩出させた。

  第三は、婦女子の生活革命である。大宗師は、その当時男尊女卑のため女子はろくに教育を受けられず、しばられた制度の中で信者たちを通じて、果敢に婦女子の教育をさせたのである。訓練を受けた彼女たちの中には、男子と同一な資格で、各教堂を担当する教役者として活動している者もいる。また既婚の婦女子には、理由なく依頼する寄生的生活を禁じ、社会と家庭の一員として、感謝一念で義務を履行しうるように訓練させた。また男子と同様の教育を受けるように禅院を設け、進んでは高等教育機関も設立するようになったのである。

  第四は、大宗師は、民主化の先駆者だとみることができる。大宗師は、教団を創立してから教団組織法を制定したが、その当時の文献を見ると民主主義の方式で構成され、また運営するようになっている。教法を伝えるのも、単伝にあらず共伝でなければならない。男子首位団と女子首位団をともに組織して、民主主義方式によって総意に基づいて教団が運営されてゆくようにした。首位団員と宗法師の選出も選挙によって行うようにしたのである。

  第五は、礼法の改革である。大宗師は、旧歴の生活様式から脱皮できるように礼法を改正し、「礼典」を発刊した。形式に片寄らず、公益を主とする質実的制度を制定したのである。そして、教役者が先導者となって、まず一つ一つ実践することによって、おいおいそれが市民化されるとき、その礼法の本意は現れ、それによって広く教化されるのである。

  このように圓佛教は、他の宗教とは異なる若干の特徴が見いだされる。その特徴は、宗教の本質を実現することによって、個人と、社会、国家、世界の教化上に好影響が及ぼされるように体系化されたといえるだろう。

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